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Notice d'autorité

辻, 保治

  • 00001
  • Personne
  • 1935-1998

故・辻保治氏(1935~98年)(以下,辻氏)は,1953年に近江絹糸に入社後,同社彦根工場において深夜業に従事し,「人権争議」(1954年)で中心的な役割を果たした。争議終結後は,労組彦根支部教宣部で「らくがき運動」を職場新聞に発展させると同時に職場闘争委員会を組織し,各職場に労働運動を根付かせる独自の運動スタイルを実現させた。一方で,サークル活動家としても活躍し,詩サークル『噴煙』を結成するなど,近江絹糸労働者の創作活動に大きな影響を与えた。辻氏は自ら彦根の地域文芸サークル誌『熔岩』にも参加した。1957~58年に近江絹糸労組の分裂騒動が起こった際には,反主流派である大垣方針派の立場をとった。
1962年,辻氏は近江絹糸を退職したが,その後も労働詩,労働運動にかかわり,晩年は地名研究に情熱を注いだ。
なお,辻氏の著作としては,「近江絹糸ストライキに参加して―〈メモ〉工員ツジの場合」(『大阪労働運動史研究』(15),pp.10-18)(2)がある。同号には入江スナエ氏の口述記録と質疑応答(辻氏も参加)を収めた「近江絹糸の思い出」(『大阪労働運動史研究』(15),pp.20-32)も掲載されている。また,辻氏の妻である朝子氏がまとめた辻氏の遺稿集『地を這う』(1998)には,病床での詩や佐渡在住の民俗学・地名研究者である本間雅彦氏(3)に宛てた手紙,箕面市史学会会報に載せた地名に関する論考が収められている。

近江絹糸紡績株式会社

  • 00002
  • Collectivité
  • 1919-1968

1917(大正6)年、「近江絹棉株式会社」の社名で、滋賀県犬上郡彦根町大字西馬場104番地に会社を設立された。1918(大正7)年、同住所に彦根工場を竣工し、従業員160人でペニー(絹紡糸の半製品)の製造を開始。
1919(大正8)年、社名を近江絹絲紡績株式会社に変更し、翌年、彦根工場に絹紡機3000錘を設置し、絹糸紡績業に転換した。1936(昭和12)年、彦根工場にスフ紡績機を新設し、スフ紡績に進出した。1939(昭和14)年、日本絹絲紡績(株)の株式過半数を取得(後に合併。富士宮工場)、同年、岡徳織布を買収し、織布部門に進出した(中津川工場)。1940(昭和15)年、日本ビロード(株)の株式を取得(後に合併。長浜工場)、1941(昭和16)年、大島光綿紡績(株)(和泉工場。後に売却)を吸収合併した。1942(昭和17)年には、大阪証券取引所に株式上場した。1943(昭和18)年、中山織布(株)(岸和田工場)、関東紡績(株)を吸収合併した。
一方、第一次世界大戦中は三菱重工業(株)と提携し、航空機製作に進出し、彦根工場のほか、各工場の一部を航空機生産に貸与するなどした。
 戦後は、1948(昭和23)年、彦根工場に綿紡績設備一万錘を新設し、綿紡績にも参入した。1950(昭和25)年、本社を彦根から大阪支店へ移転。同年、日本電気(株)大垣工場を買収し、綿紡績、スフ紡績、織布設備新設に着手し、一部操業開始(大垣工場)。1952(昭和27)年、中日本工業(株)の敷地払下げを受け、綿スフ紡績操業開始(津工場)。
 1953(昭和28)年末の保有設備は以下の通りである。
[彦根工場]  綿糸紡績41,048錘、スフ紡績31,424錘、絹糸紡績18,600錘、梳毛紡績10,000錘
[大垣工場]  綿糸紡績99,912錘、スフ紡績36,800錘、織機 666台
[津工場]   綿糸紡績81,180錘、スフ紡績13,200錘、
[富士宮工場] 綿糸紡績46,000錘、スフ紡績39,100錘、紬糸紡績1,800錘、
[中津川工場] スフ紡績31,600錘、織機240台
[長浜工場]  織機400台、
[岸和田工場] 織機642台、
1955(昭和30)年5月の各工場等在籍者数は以下の通りである。
[彦根工場] 2,426人 [大垣工場] 2,684人 [津工場] 1,989人 [富士宮工場] 1,243人 [中津川工場] 780人 [岸和田工場] 476人 [長浜工場] 330人 [本社] 193人 [東京] 33人 [名古屋] 11人

1956(昭和31)年、スフ綿原料を製造する化繊プラントを新設(加古川工場)。1963(昭和38)年、二次製品である寝装品・メリヤス製品の販売を開始し、翌年には、高級婦人服部門に進出。
  1968(昭和43)年、社名をオーミケンシ㈱に変更。
(『幾山河七十年 オーミケンシの歩み』より作成。在籍者数は、辻保治資料 JP 1005176 0006-0000-0002-0001-413 『調査月報NO5』(1955年)による。主に、当資料群に関連のある時期の沿革のみを記述)

近江絹糸紡績株式会社

  • 00003
  • Collectivité
  • 1957-

1917(大正6)年、「近江絹棉株式会社」の社名で、滋賀県犬上郡彦根町大字西馬場104番地に会社を設立された。1918(大正7)年、同住所に彦根工場を竣工し、従業員160人でペニー(絹紡糸の半製品)の製造を開始。
1919(大正8)年、社名を近江絹絲紡績株式会社に変更し、翌年、彦根工場に絹紡機3000錘を設置し、絹糸紡績業に転換した。1936(昭和12)年、彦根工場にスフ紡績機を新設し、スフ紡績に進出した。1939(昭和14)年、日本絹絲紡績(株)の株式過半数を取得(後に合併。富士宮工場)、同年、岡徳織布を買収し、織布部門に進出した(中津川工場)。1940(昭和15)年、日本ビロード(株)の株式を取得(後に合併。長浜工場)、1941(昭和16)年、大島光綿紡績(株)(和泉工場。後に売却)を吸収合併した。1942(昭和17)年には、大阪証券取引所に株式上場した。1943(昭和18)年、中山織布(株)(岸和田工場)、関東紡績(株)を吸収合併した。
一方、第一次世界大戦中は三菱重工業(株)と提携し、航空機製作に進出し、彦根工場のほか、各工場の一部を航空機生産に貸与するなどした。
   戦後は、1948(昭和23)年、彦根工場に綿紡績設備一万錘を新設し、綿紡績にも参入した。1950(昭和25)年、本社を彦根から大阪支店へ移転。同年、日本電気(株)大垣工場を買収し、綿紡績、スフ紡績、織布設備新設に着手し、一部操業開始(大垣工場)。1952(昭和27)年、中日本工業(株)の敷地払下げを受け、綿スフ紡績操業開始(津工場)。

1953(昭和28)年末の保有設備は以下の通りである。
[彦根工場]  綿糸紡績41,048錘、スフ紡績31,424錘、絹糸紡績18,600錘、梳毛紡績10,000錘
[大垣工場]  綿糸紡績99,912錘、スフ紡績36,800錘、織機 666台
[津工場]   綿糸紡績81,180錘、スフ紡績13,200錘、
[富士宮工場] 綿糸紡績46,000錘、スフ紡績39,100錘、紬糸紡績1,800錘、
[中津川工場] スフ紡績31,600錘、織機240台
[長浜工場]  織機400台、
[岸和田工場] 織機642台、
1955(昭和30)年5月の各工場等在籍者数は以下の通りである。
[彦根工場] 2,426人 [大垣工場] 2,684人 [津工場] 1,989人 [富士宮工場] 1,243人 [中津川工場] 780人 [岸和田工場] 476人 [長浜工場] 330人 [本社] 193人 [東京] 33人 [名古屋] 11人

1956(昭和31)年、スフ綿原料を製造する化繊プラントを新設(加古川工場)。1963(昭和38)年、二次製品である寝装品・メリヤス製品の販売を開始し、翌年には、高級婦人服部門に進出。
  1968(昭和43)年、社名をオーミケンシ㈱に変更。
(『幾山河七十年 オーミケンシの歩み』より作成。在籍者数は、本フォンド[B264]『調査月報NO5』(1955年)による。主に、当フォンドに関連のある時期の沿革のみを記述)

近江絹糸紡績労働組合(旧)

  • 00004
  • Collectivité
  • 1946-1954

1946年、会社によって、彦根、中津川、岸和田、長浜の各工場に労働組合が結成された。(『近江絹糸人権争議の研究』上野輝将,2009,部落問題研究所参照)。「組合役員選挙に際し、組合長も執行委員も必ず重役が指名し組合はこれを推薦する。自主的に立候補すると解雇をもって脅して辞退せしめる」(『資料労働運動史』労働省p.629)という状態で、御用組合的な性格が強かった。1954年の人権争議により、新たな組合が設立された後、争議終結時、会社系の組合は三分裂した状態であった。その後、1954年11月に新組合と会社がユニオン・ショップ協定を締結し、翌12月には、会社系の3組合が新組合に吸収される形で統一が実現した(『大いなる翼を広げて』オーミケンシ労働組合,1989参照)。

近江絹糸紡績労働組合

  • 00005
  • Collectivité
  • 1954-1968

近江絹糸株式会社には、いわゆる「御用組合」である労働組合が存在していたが、1954(昭和29)年5月25日、大阪本社潜行グループによって、新組合として、近江絹絲紡績組合を結成、全繊同盟への加盟を決定した(初代組合長 渡辺三郎)。次いで、6月2日、本社労働者約150名の参加を得て、結成大会を開催し、労働基準法違反、人権侵害の中止を求める22項目の要求を決定した。その後、各工場が次々と新組合支部を結成、ストライキを決行し、1950年代の日本を代表する労働争議である「近江絹糸人権争議」へと突入した。争議は、3ヵ月に及び、同年9月16日、中労委の第三次あっせん案を労使双方が受諾し、組合側がほぼ勝利する形で終結した。
  争議終結時、旧組合、新組合の他に争議中に会社側の肩入れで結成された組合など、4つの労働組合が存在していたが、新会社が会社と、組合員以外の雇用を認めないユニオンショップ協定を締結したことにより、1954(昭和29)年12月に、新組合に統合された。
1957(昭和32)年頃から近江絹糸の経営合理化・再建をめぐって、労働組合内で「主流派」(全繊同盟,大手銀行側)と「反主流派(再建派)」(夏川側)の対立が激化。大垣支部は、9月末の会社の給料半額払い通告の際に本部から出されたストライキ指令に対し、異議を申立て、さらに、10月初め、夏川不信任闘争を打ち切り、夏川と協力して企業再建を行うという「大垣方針」を支部見解として執行委員会で正式決定した。この後、各支部で大会開催を要求する再建派による署名運動が始まり、組合分裂は決定的となった。翌1958(昭和33)年3月からは、会社との協定により、分裂中の近江絹糸労働組合に替って、全繊同盟が交渉権を持つこととなった。組合は10月には再統一されたが、交渉権が戻ったのは、2年後の1960(昭和35)年12月であった。
   (『大いなる翼を広げて-労働組合三十年史-』『近江絹糸人権争議の研究-戦後民主主義と社会運動』より作成。主に、当コレクションに関連のある時期の沿革のみを記述)

近江絹糸寮自治会

  • 00006
  • Collectivité
  • 1954-

「人権争議」以前は特に女子寮では舎監から部屋長を通じて上位下達の仕組み浸透していたが、争議を通じ、自然発生的な自治会組織が出来上がっていった。1954年12月18日、大垣で開催された第1回寄対部長会議より、「寄宿舎とは労働条件である」ことが確認され、同月24日の団交で、会社は自治会専従者制度を正式に認め、専従者の給与については、会社が自治会に出している補助金から支払われることとなった。これにより、寮の管理は従来の舎監によるものから自治会によるものに完全に切り替わった(『大いなる翼を広げて』オーミケンシ労働組合,1989参照)。

全国繊維産業労働組合同盟

  • 00008
  • Collectivité
  • 1946-1974

繊維労働組合の全国産業別組織。正式名称は、全国繊維産業労働組合同盟。1946年7月31日、総同盟準備会の産業別組織方針によって、結成された。その後、総評に参加したが、1952年12月、総評の指導方針を批判する4単産批判を行い、総評を離脱した。のちに全労会議に加わり、同盟の中核組合として活動した。(法政大学大原社会問題研究所『社会労働大事典』旬報社,2011,pp.491-492参照)
1954年6月、近江絹糸紡績労働組合は結成と同時に全繊同盟に加入し、その後、人権争議を経済的・人的に支援し、、指導的な役割を果たした。また、近江絹糸労働組合の分裂期前後の1958年~1960年には、組合にかわって団体交渉の主体となった。

近江絹糸紡績寮自治会(旧)

  • 00009
  • Collectivité
  • -1954

『京都新聞』1948年5月31日朝刊に、「近江絹糸を摘発 軍隊調で工員か搾取 二重帳簿で手当支払いゴマ化す」という見出しの記事が掲載され、本文中に「全部が寄宿舎に収容され…自治委員会も一応もたれているが、その中に寮生係をも含み…」と寮自治委員会の記述が見られる。「(『近江絹糸人権争議の研究』上野輝将,2009,部落問題研究所pp.53-54参照)。この自治委員会が旧寮自治会またはその前身と見られる。旧寮自治会組織の解散については、シリーズ5「近江絹糸紡績寮自治会」の履歴を参照のこと。

近江絹糸対策委員会

  • 00010
  • Collectivité
  • 1957-

1957年の企業危機の際、全繊同盟中央闘争委員会は、「近江絹糸の民主的再建をはかることは人権争議以来同盟に課された義務である」と、滝田会長以下15名からなる「近絹対策委員会」を発足させた。(『大いなる翼を広げて』オーミケンシ労働組合,1989,p.120参照)。

熔岩詩人集団

  • 00011
  • Collectivité
  • 1952-1965

熔岩詩人集団は、1952年、大西作平、猪野健司、中川郁夫他5名で発足し、同年、5月に「熔岩」第1号を発行した。社会的なイデオロギーを詩の中に盛り込むことを目指し、その後、昭和40年6月の81号まで続刊された。[C423]第19号(1954年6月)、[C496]第20号(同年7月)では近江絹糸特集を企画するとともに、詩を中心とした支援ビラを発行するなど、近江絹糸紡績人権争議を支援する姿勢を示した。([C418}『熔岩』第10号[1953]、[C427}『暗い中に笑顔が』pp.122-123,「近江文学百景 ―湖国の詩脈・戦後編〈11〉―数々の詩集について ―『暗いなかに笑顔が』ほか―」(『湖国と文化』1986年夏第36号 pp.72~pp.73)参照)

中村幸男

  • 00012
  • Personne
  • 1934-2016

1954年 瀬田工業高等学校を出て近江絹糸長浜工場に就職
近江絹糸労働組合長浜支部長に就き、歴史的な人権争議106日ストを闘い抜いた
1970年 オーミケンシ労働組合大阪支部書記長
1982年 大阪同盟執行委員
1989~1993年 連合大阪副事務局長
 近江絹糸では、職制の主任として現場の人望を築き、近江絹糸労働組合の決起に際して、その影響力を発揮して最期の支部結成を担い、豊かな実践を通して得た現場組合員の視線を繋ぐ労働組合論を主張して、大阪支部(本社支部)専従書記長として、またゼンセン同盟で、存在感を発揮した。「僕の人生の宝は近江絹糸長浜工場同窓会」
 大阪同盟では、教宣・文化活動中心に重責を果たし、連合大阪結成時から副事務局長・政策局長として、最低賃金、「ゆとり宣言」、明るい高齢社会づくり運動とともに、「連合大阪の森」づくりに懸命に取組んだ。
 退職後も自然保護運動はじめ多彩な市民団体の世話役を担い、争議で多くの人びとの支援に支えられたから、「恩送りの運動」だと称して生涯現役の人生を貫いた。

統一委員会

  • 00013
  • 1958

分裂した労働組合を統一するため、全繊同盟、本部派組合、再建派組合の三者から統一委員を選出し、委員会を発足させた。第1回統一委員会は、1958年4月18日に開催され、同年10月2日、第17回の委員会で、10月25日の統一大会の開催、統一労組の概要を決定した。(『大いなる翼を広げて』オーミケンシ労働組合,1989,pp,140-143参照)。

河本乾次

  • 00015
  • Personne
  • 1898-04-27 - 1982-07-14

大阪市東区谷町の落花生卸商に生まれる。北区第一盈進高等小学校を卒業後、見習旋盤工、新聞配達、人力車夫などをして釜ヶ崎や天六を転々。1919年1月に上京、新聞配達や臨時郵便夫をしながら上野図書館で独学、光風学舎、労働組合研究会、自由人連盟、北風会、平民大学などに参加。1921年2月に帰阪、4月に南海電鉄に入社、駅夫からのち車掌になる。以降交通労働運動を中心に遠藤喜一らと活躍、1930年『アナルキズム研究』1931年『自由連合』1933年『自主労働者』などを発行。1937年頃から神崎川改修工事に従事し1946年、大阪府従業員組合および府労働組合連合会の執行委員。1947年、大阪府土木部直傭労働組合を結成し日本労働組合会議に参加。1958年、日本アナキスト連盟加入、新聞雑誌等への寄稿多数。1968年の連盟解散後も、晩年に至るまで神戸を中心としたアナキストとの交友は深く、姫路の自由連合紙(向井孝)をはじめ厖大な紙誌資料とともに貴重な書簡を遺した。

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