検索結果:24件

典拠レコード

近江絹糸紡績株式会社

  • 00003
  • 組織名
  • 1957-

1917(大正6)年、「近江絹棉株式会社」の社名で、滋賀県犬上郡彦根町大字西馬場104番地に会社を設立された。1918(大正7)年、同住所に彦根工場を竣工し、従業員160人でペニー(絹紡糸の半製品)の製造を開始。
1919(大正8)年、社名を近江絹絲紡績株式会社に変更し、翌年、彦根工場に絹紡機3000錘を設置し、絹糸紡績業に転換した。1936(昭和12)年、彦根工場にスフ紡績機を新設し、スフ紡績に進出した。1939(昭和14)年、日本絹絲紡績(株)の株式過半数を取得(後に合併。富士宮工場)、同年、岡徳織布を買収し、織布部門に進出した(中津川工場)。1940(昭和15)年、日本ビロード(株)の株式を取得(後に合併。長浜工場)、1941(昭和16)年、大島光綿紡績(株)(和泉工場。後に売却)を吸収合併した。1942(昭和17)年には、大阪証券取引所に株式上場した。1943(昭和18)年、中山織布(株)(岸和田工場)、関東紡績(株)を吸収合併した。
一方、第一次世界大戦中は三菱重工業(株)と提携し、航空機製作に進出し、彦根工場のほか、各工場の一部を航空機生産に貸与するなどした。
   戦後は、1948(昭和23)年、彦根工場に綿紡績設備一万錘を新設し、綿紡績にも参入した。1950(昭和25)年、本社を彦根から大阪支店へ移転。同年、日本電気(株)大垣工場を買収し、綿紡績、スフ紡績、織布設備新設に着手し、一部操業開始(大垣工場)。1952(昭和27)年、中日本工業(株)の敷地払下げを受け、綿スフ紡績操業開始(津工場)。

1953(昭和28)年末の保有設備は以下の通りである。
[彦根工場]  綿糸紡績41,048錘、スフ紡績31,424錘、絹糸紡績18,600錘、梳毛紡績10,000錘
[大垣工場]  綿糸紡績99,912錘、スフ紡績36,800錘、織機 666台
[津工場]   綿糸紡績81,180錘、スフ紡績13,200錘、
[富士宮工場] 綿糸紡績46,000錘、スフ紡績39,100錘、紬糸紡績1,800錘、
[中津川工場] スフ紡績31,600錘、織機240台
[長浜工場]  織機400台、
[岸和田工場] 織機642台、
1955(昭和30)年5月の各工場等在籍者数は以下の通りである。
[彦根工場] 2,426人 [大垣工場] 2,684人 [津工場] 1,989人 [富士宮工場] 1,243人 [中津川工場] 780人 [岸和田工場] 476人 [長浜工場] 330人 [本社] 193人 [東京] 33人 [名古屋] 11人

1956(昭和31)年、スフ綿原料を製造する化繊プラントを新設(加古川工場)。1963(昭和38)年、二次製品である寝装品・メリヤス製品の販売を開始し、翌年には、高級婦人服部門に進出。
  1968(昭和43)年、社名をオーミケンシ㈱に変更。
(『幾山河七十年 オーミケンシの歩み』より作成。在籍者数は、本フォンド[B264]『調査月報NO5』(1955年)による。主に、当フォンドに関連のある時期の沿革のみを記述)

近江絹糸寮自治会

  • 00006
  • 組織名
  • 1954-

「人権争議」以前は特に女子寮では舎監から部屋長を通じて上位下達の仕組み浸透していたが、争議を通じ、自然発生的な自治会組織が出来上がっていった。1954年12月18日、大垣で開催された第1回寄対部長会議より、「寄宿舎とは労働条件である」ことが確認され、同月24日の団交で、会社は自治会専従者制度を正式に認め、専従者の給与については、会社が自治会に出している補助金から支払われることとなった。これにより、寮の管理は従来の舎監によるものから自治会によるものに完全に切り替わった(『大いなる翼を広げて』オーミケンシ労働組合,1989参照)。

近江絹糸紡績寮自治会(旧)

  • 00009
  • 組織名
  • -1954

『京都新聞』1948年5月31日朝刊に、「近江絹糸を摘発 軍隊調で工員か搾取 二重帳簿で手当支払いゴマ化す」という見出しの記事が掲載され、本文中に「全部が寄宿舎に収容され…自治委員会も一応もたれているが、その中に寮生係をも含み…」と寮自治委員会の記述が見られる。「(『近江絹糸人権争議の研究』上野輝将,2009,部落問題研究所pp.53-54参照)。この自治委員会が旧寮自治会またはその前身と見られる。旧寮自治会組織の解散については、シリーズ5「近江絹糸紡績寮自治会」の履歴を参照のこと。

近江絹糸対策委員会

  • 00010
  • 組織名
  • 1957-

1957年の企業危機の際、全繊同盟中央闘争委員会は、「近江絹糸の民主的再建をはかることは人権争議以来同盟に課された義務である」と、滝田会長以下15名からなる「近絹対策委員会」を発足させた。(『大いなる翼を広げて』オーミケンシ労働組合,1989,p.120参照)。

中村幸男

  • 00012
  • 個人名
  • 1934-2016

1954年 瀬田工業高等学校を出て近江絹糸長浜工場に就職
近江絹糸労働組合長浜支部長に就き、歴史的な人権争議106日ストを闘い抜いた
1970年 オーミケンシ労働組合大阪支部書記長
1982年 大阪同盟執行委員
1989~1993年 連合大阪副事務局長
 近江絹糸では、職制の主任として現場の人望を築き、近江絹糸労働組合の決起に際して、その影響力を発揮して最期の支部結成を担い、豊かな実践を通して得た現場組合員の視線を繋ぐ労働組合論を主張して、大阪支部(本社支部)専従書記長として、またゼンセン同盟で、存在感を発揮した。「僕の人生の宝は近江絹糸長浜工場同窓会」
 大阪同盟では、教宣・文化活動中心に重責を果たし、連合大阪結成時から副事務局長・政策局長として、最低賃金、「ゆとり宣言」、明るい高齢社会づくり運動とともに、「連合大阪の森」づくりに懸命に取組んだ。
 退職後も自然保護運動はじめ多彩な市民団体の世話役を担い、争議で多くの人びとの支援に支えられたから、「恩送りの運動」だと称して生涯現役の人生を貫いた。

統一委員会

  • 00013
  • 1958

分裂した労働組合を統一するため、全繊同盟、本部派組合、再建派組合の三者から統一委員を選出し、委員会を発足させた。第1回統一委員会は、1958年4月18日に開催され、同年10月2日、第17回の委員会で、10月25日の統一大会の開催、統一労組の概要を決定した。(『大いなる翼を広げて』オーミケンシ労働組合,1989,pp,140-143参照)。

竹林隆

  • 00018

全国繊維産業労働組合同盟

  • 00008
  • 組織名
  • 1946-1974

繊維労働組合の全国産業別組織。正式名称は、全国繊維産業労働組合同盟。1946年7月31日、総同盟準備会の産業別組織方針によって、結成された。その後、総評に参加したが、1952年12月、総評の指導方針を批判する4単産批判を行い、総評を離脱した。のちに全労会議に加わり、同盟の中核組合として活動した。(法政大学大原社会問題研究所『社会労働大事典』旬報社,2011,pp.491-492参照)
1954年6月、近江絹糸紡績労働組合は結成と同時に全繊同盟に加入し、その後、人権争議を経済的・人的に支援し、、指導的な役割を果たした。また、近江絹糸労働組合の分裂期前後の1958年~1960年には、組合にかわって団体交渉の主体となった。

中島敏

  • SN001
  • 個人名
  • 1947-

1947年、香川県小豆島うまれ。日本写真専門学校卒。
作品集として『ドヤ街 釜ヶ崎』晩聲社(1986年)『単身生活者』海風社(1990年)『定点観測・釜ヶ崎』葉文館出版(1999年)など。

近江絹糸紡績労働組合(旧)

  • 00004
  • 組織名
  • 1946-1954

1946年、会社によって、彦根、中津川、岸和田、長浜の各工場に労働組合が結成された。(『近江絹糸人権争議の研究』上野輝将,2009,部落問題研究所参照)。「組合役員選挙に際し、組合長も執行委員も必ず重役が指名し組合はこれを推薦する。自主的に立候補すると解雇をもって脅して辞退せしめる」(『資料労働運動史』労働省p.629)という状態で、御用組合的な性格が強かった。1954年の人権争議により、新たな組合が設立された後、争議終結時、会社系の組合は三分裂した状態であった。その後、1954年11月に新組合と会社がユニオン・ショップ協定を締結し、翌12月には、会社系の3組合が新組合に吸収される形で統一が実現した(『大いなる翼を広げて』オーミケンシ労働組合,1989参照)。

24 件中 1 - 15 件