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Notice d'autorité
Osaka Labor Archive

むつみ会

  • 00020
  • Collectivité
  • 1962.5.22-1978.8.30

1962(昭和37)年5月22日、立石電機と立石電機販売の合同による「むつみ会」が発足。その後、各P会社でも発足(単一機種の生産を行う各工場を独立採算制とし、管理業務のみを本社で担う立石電機独自のプロデューサーシステム)による関連会社、すでに労働組合があったさがの分会を除く)
7月に機関誌「むつみ」、10月に家族向け機関誌「むつみホーム」を発刊。会則制定。
1965(昭和40)年、分社化していた関連会社の合併により、むつみ会の組織を改正し、各事業所の組織を分会とし、最高意思決定機関として分会長会議を設置。
1968(昭和43)年、むつみ会にむつみ本会議、合同労働委員会、合同福祉委員会を新設。経営機構と社会機構を制度的につなぐ「経営協議会」を新設。
1971(昭和46)年、最高意思決定機関として中央委員会を設置。経営機構との折衝のため、運営委員会が設置された。機関誌「前進」創刊。
1978(昭和53)年4月2日、長岡事業所を中心に総評全国金属労働組合立石電機支部(全金立石)が結成され、むつみ会による労働条件にかかわる活動を停止。
8月30日、会の財産清算処理を終了し、解散。

オーミケンシ労働組合

  • 00019
  • Collectivité
  • 1968-

1968(昭和43)年8月、「近江絹糸紡績株式会社」が、「オーミケンシ株式会社」に社名変更したことに伴い、組合名称を「近江絹糸紡績労働組合」から「オーミケンシ労働組合」に変更。
(『大いなる翼を広げて-労働組合三十年史-』参照)

河本乾次

  • 00015
  • Personne
  • 1898-04-27 - 1982-07-14

大阪市東区谷町の落花生卸商に生まれる。北区第一盈進高等小学校を卒業後、見習旋盤工、新聞配達、人力車夫などをして釜ヶ崎や天六を転々。1919年1月に上京、新聞配達や臨時郵便夫をしながら上野図書館で独学、光風学舎、労働組合研究会、自由人連盟、北風会、平民大学などに参加。1921年2月に帰阪、4月に南海電鉄に入社、駅夫からのち車掌になる。以降交通労働運動を中心に遠藤喜一らと活躍、1930年『アナルキズム研究』1931年『自由連合』1933年『自主労働者』などを発行。1937年頃から神崎川改修工事に従事し1946年、大阪府従業員組合および府労働組合連合会の執行委員。1947年、大阪府土木部直傭労働組合を結成し日本労働組合会議に参加。1958年、日本アナキスト連盟加入、新聞雑誌等への寄稿多数。1968年の連盟解散後も、晩年に至るまで神戸を中心としたアナキストとの交友は深く、姫路の自由連合紙(向井孝)をはじめ厖大な紙誌資料とともに貴重な書簡を遺した。

統一委員会

  • 00013
  • 1958

分裂した労働組合を統一するため、全繊同盟、本部派組合、再建派組合の三者から統一委員を選出し、委員会を発足させた。第1回統一委員会は、1958年4月18日に開催され、同年10月2日、第17回の委員会で、10月25日の統一大会の開催、統一労組の概要を決定した。(『大いなる翼を広げて』オーミケンシ労働組合,1989,pp,140-143参照)。

中村幸男

  • 00012
  • Personne
  • 1934-2016

1954年 瀬田工業高等学校を出て近江絹糸長浜工場に就職
近江絹糸労働組合長浜支部長に就き、歴史的な人権争議106日ストを闘い抜いた
1970年 オーミケンシ労働組合大阪支部書記長
1982年 大阪同盟執行委員
1989~1993年 連合大阪副事務局長
 近江絹糸では、職制の主任として現場の人望を築き、近江絹糸労働組合の決起に際して、その影響力を発揮して最期の支部結成を担い、豊かな実践を通して得た現場組合員の視線を繋ぐ労働組合論を主張して、大阪支部(本社支部)専従書記長として、またゼンセン同盟で、存在感を発揮した。「僕の人生の宝は近江絹糸長浜工場同窓会」
 大阪同盟では、教宣・文化活動中心に重責を果たし、連合大阪結成時から副事務局長・政策局長として、最低賃金、「ゆとり宣言」、明るい高齢社会づくり運動とともに、「連合大阪の森」づくりに懸命に取組んだ。
 退職後も自然保護運動はじめ多彩な市民団体の世話役を担い、争議で多くの人びとの支援に支えられたから、「恩送りの運動」だと称して生涯現役の人生を貫いた。

熔岩詩人集団

  • 00011
  • Collectivité
  • 1952-1965

熔岩詩人集団は、1952年、大西作平、猪野健司、中川郁夫他5名で発足し、同年、5月に「熔岩」第1号を発行した。社会的なイデオロギーを詩の中に盛り込むことを目指し、その後、昭和40年6月の81号まで続刊された。[C423]第19号(1954年6月)、[C496]第20号(同年7月)では近江絹糸特集を企画するとともに、詩を中心とした支援ビラを発行するなど、近江絹糸紡績人権争議を支援する姿勢を示した。([C418}『熔岩』第10号[1953]、[C427}『暗い中に笑顔が』pp.122-123,「近江文学百景 ―湖国の詩脈・戦後編〈11〉―数々の詩集について ―『暗いなかに笑顔が』ほか―」(『湖国と文化』1986年夏第36号 pp.72~pp.73)参照)

近江絹糸対策委員会

  • 00010
  • Collectivité
  • 1957-

1957年の企業危機の際、全繊同盟中央闘争委員会は、「近江絹糸の民主的再建をはかることは人権争議以来同盟に課された義務である」と、滝田会長以下15名からなる「近絹対策委員会」を発足させた。(『大いなる翼を広げて』オーミケンシ労働組合,1989,p.120参照)。

近江絹糸紡績寮自治会(旧)

  • 00009
  • Collectivité
  • -1954

『京都新聞』1948年5月31日朝刊に、「近江絹糸を摘発 軍隊調で工員か搾取 二重帳簿で手当支払いゴマ化す」という見出しの記事が掲載され、本文中に「全部が寄宿舎に収容され…自治委員会も一応もたれているが、その中に寮生係をも含み…」と寮自治委員会の記述が見られる。「(『近江絹糸人権争議の研究』上野輝将,2009,部落問題研究所pp.53-54参照)。この自治委員会が旧寮自治会またはその前身と見られる。旧寮自治会組織の解散については、シリーズ5「近江絹糸紡績寮自治会」の履歴を参照のこと。

全国繊維産業労働組合同盟

  • 00008
  • Collectivité
  • 1946-1974

繊維労働組合の全国産業別組織。正式名称は、全国繊維産業労働組合同盟。1946年7月31日、総同盟準備会の産業別組織方針によって、結成された。その後、総評に参加したが、1952年12月、総評の指導方針を批判する4単産批判を行い、総評を離脱した。のちに全労会議に加わり、同盟の中核組合として活動した。(法政大学大原社会問題研究所『社会労働大事典』旬報社,2011,pp.491-492参照)
1954年6月、近江絹糸紡績労働組合は結成と同時に全繊同盟に加入し、その後、人権争議を経済的・人的に支援し、、指導的な役割を果たした。また、近江絹糸労働組合の分裂期前後の1958年~1960年には、組合にかわって団体交渉の主体となった。

近江絹糸寮自治会

  • 00006
  • Collectivité
  • 1954-

「人権争議」以前は特に女子寮では舎監から部屋長を通じて上位下達の仕組み浸透していたが、争議を通じ、自然発生的な自治会組織が出来上がっていった。1954年12月18日、大垣で開催された第1回寄対部長会議より、「寄宿舎とは労働条件である」ことが確認され、同月24日の団交で、会社は自治会専従者制度を正式に認め、専従者の給与については、会社が自治会に出している補助金から支払われることとなった。これにより、寮の管理は従来の舎監によるものから自治会によるものに完全に切り替わった(『大いなる翼を広げて』オーミケンシ労働組合,1989参照)。

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